私は日本で14年間、日本食のシェフとして働いているGと申します。あなたのレストランで募集していると知り連絡をさせていただきました。沖縄と言う日本でも南の島で生まれ育ち、どちらかと言えば日本人には見えない顔立ちです。

事実、インドネシアではインドネシア人だと間違えられ、よく外国からのお客さまにも、ブラジル人やポリネシアンに間違われます。

私がシェフになりたいと思ったのはある母の一言がきっかけでした。少しお聞き頂けますか?

私の父は私が2歳の時、交通事故に遭いそれ以来、働けなくなりました。そして父は身体障害者となり施設に入っていましたので、母が働いて私たち兄弟4人を育ててくれました。日本の生活保護はニュージーランドのように手厚いものではありません。

母は毎日働かなくてはならず、営業として働き私たち兄弟4人には笑顔を絶やさず育ててくれました。仕事から帰ってくると疲れた顔も見せずにご飯を作り、晩御飯を食べた後は、父がいる病院に付き添いで泊まりに行っていたのです。

母がよくやっていることは良く分かっていましたが小さかった私には不満もありました。母は昼は営業で働き、夜は夜で内職。そんなに働いているのに裕福ではなかったのです。ピクニックにも連れて行ってもらえない、テレビが壊れても買ってもらえない、そんな状態が続きました。でも母はいつも私にやさしかったです。

小学校6年生のとき初めて母が運動会に来てくれました。運動神経が鈍い私はかけっこでビリでした。

母は家に帰って言いました。
「かけっこの順番なんてどうでもいい。おまえは素晴らしいんだから」

悪いテストの点や通知表を見ても母は「大丈夫おまえは素晴らしいんだから」と言ってくれました。
「あんたは自分のことをしっかりやりなさい」「大丈夫だよ」と言っていましたが、本当は苦しい日々だったと思います。
私は心に誓いました。大きくなったら自分が働いて母さんを幸せにしてあげると

ある日、私が14歳ぐらいの時だったでしょうか、母に何料理が好き?となにげなく尋ねたのです。
「そうだね、、和食がすきだね」という答えが返ってきました。
母は決して子供の進路について強制するような人ではありませんでした。
「自分がやりたい仕事をやればいいんだよ」とやさしく母はいつも言い、自らの希望を押しつけるようなことは決してありませんでした。

ところがなぜか不思議なことに一言で、私は、「じゃ俺は和食のシェフになろう」と思ったのです。
そして高校では調理科を選択し、卒業後は故郷を離れ、大阪で働き始めました。

和食の世界は厳しく軍隊のようでした。いえ、軍隊以上かもしれませんね。仕事はなかなか慣れなくて失敗の連続でした。

「なんど同じことを言わせるんだ」
「やめて故郷にかえれよ!」
「おまえは本当にダメなやつだな!」

朝は8時半から夜は12時まで働き、働きすぎで目がくらみかけたときもありました。怒鳴られるたびに落ち込みましたが、そんなとき母の声が聞こえました。

「大丈夫、おまえは素晴らしいんだから」
この言葉を思い出すと元気が湧いてきました。

「よし、母さんにオレの素晴らしさをみてもらおう」
そう考えるとどこまでも頑張れたのです。

○年が過ぎ、150席ある店舗で切り盛りするようにもなっていたころ、母が店に遊びにきました。

これは母が実家から7時間をかけてお店まで遊びに来た時の写真です。
私が大切にしている写真の一つです。

それから半年後、仕事を終え帰ろうとしていたら、店長が私のところに駆け込んできました。
「大変だ!お母さんが重体だ!すぐに病院に行きなさい」

病院に着いた時、母の顔には白い布がかけられていました。
私はただ「かあさん、かあさん」と叫びながらただただ泣き続けました。

私たち兄弟を育てることに全てを注いでくれた母。
毎晩、父のいる病院に出かけていく母。

母は果たして幸せだったのだろうか?
母は何を楽しみにしてきたのだろう?

これから親孝行できると思っていたのに・・
これから楽をさせてあげようと思ったのに

あれから7年が経ち私は32歳になりました。

「おまえは素晴らしい」と言ってくれた母さんに今の私の姿を見せることは出来ません。
母にその言葉が間違っていなかったという証拠を見てもらいたかったですが、母はもういません。

だけど最近気付いたのです。
多くのお客さんに自分の料理を喜んでもらっていることを。
素晴らしいと言ってもらえることで、成長し、多くの人に喜んでもらえる人間になったことを。。

今では店舗も任され、スタッフをまとめ働いています。時には他のスタッフにイライラすることもありますが、私は母の言葉を思い出し、職場の仲間に「素晴らしいよ、お前は!」と言うようにしています。そうするとスタッフとも良い関係を築け楽しく仕事出来るようになりました。